れぽとしろ

洗脳するように、ヒトラー青年団などの組織によってヒトラーによる国家社会主義を良しとする考え方に導こうとしても、人々から完全に''自由''を取り上げることはできないのだという所が印象に残った。特に幼いうちの方が、純粋で、人間の本来的なあり方としてむやみに人を傷つけたり、自分の好きなことを禁止されたり、個性を殺してしまうことが正しい行いではないと否定することができるのではないかと感じた。ある15歳の少女がヒトラー青年団においてヒトラーについては認めつつもユダヤ人のことを気にしたり、娯楽として好んで用いていた他民族の歌を禁止されたり、ショルが大隊旗をニュルンベルクの党大会に捧持する任務を受けたときの場面でそれが感じられた。いくらあらゆる理屈を付けてヒトラーが自らの望む国のあり方を肯定しても、人間が本能的に嫌悪してしまうものはやはり本来正しくないものだと、やがて我々は気付くことができるのだ。ここに、人間に強さや本来的正義感、倫理観が備わったいることを感じられ、喜びとともに感心させられた。
ショルとゾフィーの最も素晴らしい点は、彼らがキリスト教倫理観を持っていたところである。秘密警察に捕まり、尋問を受けることになった時、ショルとゾフィーが気にしていたのは他の仲間のこと、家族のことだけだあった。ショル兄妹は捕まってから処刑されるまで、彼らが置かれている状況では普通ありえないほど落ち着いていた。彼らが表情を曇らせたり、激しく動揺したのは、誰か仲間の名前を秘密警察に明かさなければならなくなった時や、仲間の一人であるクリストゥル・プロープストが秘密警察に同じように捕まったことを知った時だけであった。ショル兄妹にとって恐れるべきことは、自らの安否よりも人々の安全であったのである。だからこそ、危険を冒してまで白バラ通信をはじめとする様々な対国家社会主義運動や、他人の罪を軽くするために自らに全ての罪を被せるということができたのである。これはまさにイエス・キリストの自己犠牲の精神と同じであった。
そして、もし私が自分を犠牲にしてでも誰かを守ろうと考える時、その相手に対して愛を抱いていることは間違いない。同様にショル兄妹も、守るべきものに対して愛を持っていたと考えられる。彼らの素晴らしさは、それが身近の人物に限らずあらゆる人に向けられていたというところにある。これもイエス・キリストのような博愛の精神に当てはまる。
さらに、秘密警察に捕まり収容されている時、ゾフィーはエルぜ・ゲーベル、ショルはヘルムート・Fに出会う。ショル兄妹は彼らのことをすっかり信用して、多くの本音を語った。エルぜ・ゲーベルに至っては、秘密警察ミュンヘン本部監獄課の受入れ係りで働かされる身、つまり敵側としてもおかしくない人物であったが、それでもゾフィーは全く疑う素振りもなくエルぜ・ゲーベルの言うことを信じていた。人間への信頼も、キリスト教倫理の特質である。
このようなキリスト教倫理観を持つことは、なかなかできることではない。イエス・キリストにならって生きること、例えば他者を守ろうとすること、つまり愛することは、実際に困難なものである。エーリッヒ・フロムは愛は技術であると言っている。愛することができるようになるためには習練が必要なのだと。戦争や圧政のある酷い環境だからこそ、生きていくためには助け合いが必要で思いやりの心が育まれやすかったのかもしれないが、ともかく彼らの、虐げられている者への愛や奉仕の心はこの時代に強力な力と影響力を持った。
私はキリスト教徒ではないが、彼らの重視したキリスト教倫理観は、全ての人にとってもより良い行き方を求める際に重要となることと当てはまると考えた。なぜなら、人の自由や勝利、個性を大事にすることは、あらゆる可能性を潰さないということである。抑制するという行為は、本来あったはずの行為が行われなくなるということで、まだ出会ったことのないものに遭遇するチャンスが失われてしまうということである。発見なくして人類は発展していくことができない。技術の面でも精神の面でもそうである。全てが決められている場では、唯一それを操る頂点に立つものだけが気持ちの良いものである。収容所の中で自分らしく生きたショル兄妹と、訓練によって統制されたナチスの軍人では、後者の方がまるで囚人のようであり、「生き生きとした」や「笑顔にあふれて」という言葉を使えるような豊かな人生とは無縁なように感じられる。よって我々がより良い生活を求めるならば、自由であること、それぞれの個性を生かすことは大切になってくる。
そして人を愛すること、奉仕すること、信じることは、他者との繋がりを持つ際に望ましい要素となり得る。我々は人との関わりを持たずして生きていくことはできない。どんな人間でも、人から生まれ、人によってある程度まで育てられなければ生きていくことはできないからである。ごく自然に生きていくならば、人生は人との出会いの連続である。多くの人によって成り立つ社会で、出会う人とより良い関係、誰もが不幸にならない関わり方をするために必要なことは、他者を尊重し大切にすることである。大切にすることは、即ち愛することと言い換えられる。他者に奉仕することは自らも奉仕されることに繋がる。人に助けてもらった経験のある人は、恩返ししたい気持ちを持ち、また別の人を助けるようになる。それがめぐっていけば、多くの人が救われることになっていく。信じることは、我々には少し難しいことに感じられる。人を騙そうとする人間が少なからず存在するからである。しかし何もかも疑っていては心が休まることがなく、他者からの心からの善意も素直に受け取る事はできない。信じることで、お互いが認めあったと感じられ関係が良好になるとこもある。これらのことから、キリスト教倫理の中で基盤となっていることは、そうでない我々のうちでも重要なものだということが出来る。