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パウロ以後の書簡に記されている妻(女性)への勧告などを見ると、妻はことごとく夫に従うようにと書かれており、女性は男性よりも立場が低く、権威が欠如した存在であるという扱われ方をしている。しかし、男性と女性にそのような差はなく、この扱いは不当なものだというのが私の意見である。
まず第一に、ペトロ書に「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」とあるように、女性が弱者であるという意見に反論する。
確かに力で男女が争った場合、ほとんどの場合筋肉の付き方の違い等によって、女性は男性に負けてしまう。しかし、女性は出産を経験するために、痛みへの耐性と怪我の治癒力でいえば男性よりも優れており、男性よりも強い一面を持っている。したがって、身体の違いによってどちらの方が弱者であると決めつけることは難しい。
社会における弱者という女性の立場は、そうであれば都合がいいと考える男性によって作られてきたものである。女性の意見は聞かなくてもよいというような意識なく、フラットな状態で男女が話し合ったとしたら、女性の発言の質は男性と比べても劣るところがないに違いない。なぜなら、男女は頭の良し悪しに差がないからである。頭の良い学校にもそうでない学校にも、男女は両方存在していて、このことから頭の良し悪しは男女差ではなく個人差によるものが大きいのだと分かる。
第二に、テモテ書の2章に、婦人が教えたり、男の上に立ったりすることはいけないと書かれていることについて考えていきたい。
知識のある者がない者に教えるという行為は、そもそも禁止される理由がない。知識を待つ能力に男女差はない。それにもかかわらず、むやみに制限することは知識を伝えられる人材を減らすことになり、人々の知識の成長を遅らせ、その時々で必要な情報がうまく伝わっていかなくなるので、かえって効率が悪いことになる。
また、婦人は男の上に立ってはいけないという部分についても、この勧告に従おうとするために女性が自らの能力を抑えるというのはおかしな話である。
人間のよりよい生き方としては、日々成長を求めて努力を重ねていくのがよい。その過程で、女性が男性より優れた存在になることは十分ありえる。あえて女性の能力を抑えて男性を立てるより、男女関係なく優秀な人材が人の上に立ったり教えたりする方が、より競争力を高めて個人の能力を引き伸ばしやすいこともあり、高度な社会を作ることができると考えられる。
したがってこれらの勧告は、積極的に女性を下に扱うためだけのものであるといえる。
どんな立場の人間でも、命の価値は皆等しく、神の下では同じ血と肉を分け合う者として平等である。そうであるにもかかわらず、妻や子、奴隷などを自分より劣った存在として見ることを勧めることは、男性を高慢にさせ、自分の価値を他者との比較によって見出すような人間にさせてしまう恐れがあるので、キリスト教の聖書に書かれるものとして相応しくないと考える。
第三に、ペトロ書に書かれている内容については、女性が軽視されているわけではなく共感できる内容もあるが、それは女性だけに限って勧告するものではないということについて考える。
まず、神を畏れる女性の純真な生活を見て、御言葉を信じない男性であっても信仰に導かれるようになるため、妻は夫に従うべきだという勧告がある。
しかしこれは女性が御言葉を信じていない場合にも使えて、反対に男性がその行いによって女性を信仰に導くことも出来るので女性だけの役割にはならない。
また、女性の「装いは編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なもの」であってはならず、「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべき」だという内容も、非常に共感できるが女性だけに与えられる勧告ではない。
いくら外見を美しく着飾っても、外見によって得られる利点はわずかで、内面を磨かない者が外側だけ取り繕ってもかえって不格好になってしまうだけである。例えば、どんなに見た目が美しい人でも、電車の中で化粧をしたり、道にゴミを捨てたりといった姿を見せれば印象は台無しである。一方見た目が控えめな人であっても、一つ一つの所作が美しく教養の行き届いた雰囲気を見せる人の方は好印象を持たれやすい。これにも男女差はなく、男性も、外見を着飾るよりも内面を重視し磨きをかけた方が、よく見られるだけでなく、よりよい人格形成にも役立てられる。
第四に、聖書の内容は性差別主義で父権制的な記述が目立つが、女性に対するイエスの態度はどうであったのかということを考えてみると、ここでは男性も女性も平等に接しているイエスの姿を見ることができる。「男性だけでなく女性も、神の御心についてイエスの優しくも厳しい教えを聞いた「群衆」のなかに含まれていた」。そしてまた、「男性だけでなく女性もイエスの癒しの奇跡と食物の奇跡にあずかっている」。
世の中の体系的には女性は蔑視されているが、神や神の子の前では性差はなく、むしろイエスに香油を注いだ女性の物語のように、「自己犠牲的奉仕の行為、拒絶と辱めへといたる対立の経験、そして最終的な輝かしい正しさの証明」というキリスト的な愛の行為をしているとして、女性は福音を宣べ伝える際に語られる重要な話の一端を担っている重役なのだということが分かる。
以上のことから、新約聖書における女性は男性より劣った存在として扱われており、父権制的であるけれども、実際は男性と女性は能力に差はなく、平等なものであり、女性も重要な役割を持つ存在であるとわかる。したがって、新約聖書における女性の扱いは不当なものである。