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れぽぽぽぽぽ

1872年以降から、多くの病気が連続して彼の生涯につきまとっていたのだが、1879年にはそれがますます悪化していった。加えて世間嫌いの病気や人付き合いの困難、友への過大な要求があり、ヴァーグナーのみならず師リッチェルやローデ、ゲルスドルフとの関係も疎遠になっていった。しかし代わりに得た友人もあった。その中のひとりであるペーター・ガストは、ニーチェの著書や講義、個人的な付き合いを通してニーチェを崇拝するに至り、ニーチェも彼の音楽家としての才能や人間性に魅せられていった。彼は後にニーチェの口述の筆記や印刷前の清書を書き上げるなどの奉仕で、絶対に不可欠な存在となった。
ニーチェは悪化していく病気のためにガストの他にも、自らの世話をしてくれる人を必要とし、それを妹のエリーザベットが引き受けるようになった。それでも不安定な生活であったので、この問題を解決するべく、生活に安定をもたらすために1867年、オランダ娘マティルデ・トラムペダッハに手紙で求婚した。しかしこの求婚は失敗に終わった。
結婚の話がなくなり、1878年にはニーチェの面倒をみてくれていた妹が母の元へ行ったきりになってしまい、さらには1879年のはじめに激しい頭痛と眼の痛み、絶え間ない嘔吐を伴う発作が頻発し、容態が悪化の一途を辿っていた。ニーチェは、教授職を辞任することに決めた。
しかし病気にもかかわらずニーチェは執筆を続け、1886年には『さまざまな意見と箴言』と『漂白書とその影』が一冊にまとめられ、『人間的な、あまりに人間的なもの』という標題がつけられた。これに続いて『曙光』、『喜ばしき知識』を刊行した。
ニーチェはその後もあちこちへ旅する中でシールスにたどり着き、そこで今まで知らなかった調子の幸福感を得ることとなった。そして夏には同じきものの永劫の回帰の思想「ツァラトゥストラ」への鍵を手に入れた。
1882年にニーチェは友人とともにローマへ行き、ロシア人のルー・サロメと出会った。ニーチェは恋に落ち、やがてルーに求婚したが断られてしまった。それ以降もニーチェのルーへの感情は変わることがなかった。そのことに対して妹のエリーザベットは嫉妬し、ルーの陰口やうわさ話を言いふらすようになり、やがてニーチェと妹は一時決裂するまでに至った。
その翌年、ニーチェはたった10日間で『ツァラトゥストラ』第一部を書き上げ、同じ年に第二部、第三部も書き上げられた。第四部は1885年に完成させている。しかし、これらの作品は当時人々にら理解されなかった。
ニーチェはそれから、1886年の『善悪の彼岸』を初めに三年間で『道徳の系譜学』、『ヴァーグナーの場合』、『偶像の黄昏』、『反キリスト者キリスト教批判の試み』、『この人を見よ』、『ニーチェヴァーグナー』、『ディオニュソス賛歌』という数々の作品を生み出していった。その翌年、ニーチェトリノで精神崩壊することとなった。バーゼルの神経病院に入院し、その時の診断は「進行性麻痺症」であった。その後イェーナの病院に転院したが、次の年には母が自宅療養の許可をとり介護をして生活することとなった。母が亡くなった後は妹が看病を引き継いだ。
そして彼は1900年8月25日に亡くなり、ロェッケン村の墓地に埋められた。
「ヨーロッパのニヒリズムの最大の診断者ニーチェ」として世界的に名声が高まり始めるのは、彼の死後数年たってからであった。