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れぽぽぽぽ

フィードリッヒ・ニーチェは1844年10月15日、ザクセン州リェッツエン近郊ロェッケン村で、ルター的信仰にあるニーチェ家の父カール・ルードヴィッヒと母フランツィスカの間に生まれた。
その後フィードリッヒは妹と弟を持ったが、弟は2歳で亡くなり、そして父もその数ヶ月前に亡くなっていたので、彼は女手の中で成長していった。
1850年に、家族はロェッケンからザーレ河畔のナウムブルクへ移住した。
彼は子供の頃から真面目で頭がよかった。家庭環境により、彼はほかの子供たちと遊ぶよりも学者のように字を書いて過ごす方を好んだ。詩や日記を数多く書き、子供らしい遊びをするにもやり方は自分で考え出し、本にまとめるほどであった。小学生の頃すでに才能の片鱗は現れていたのである。また、父から受け継いだ音楽への関心も高めていった。
シュールプフォルタという学校に通うようになり、そこで彼はホームシックから「ゲルマニア」という学術ー文学的な会を設立した。その活動の中で「音楽雑誌」を購読し、これに影響されニーチェはリヒャルト・ヴァーグナーの芸術を好むようになった。また、この頃にニーチェは徐々にキリスト教への疑いを持つようになり、信仰喪失することとなった。ボン大学へ進学し、フランコニアに入会し様々な娯楽を経験したがすぐに脱退してしまった。やがてボンを去りライプツィッヒに移り猛勉強をした。そこで師リッチェルと出会い、彼の指導のもとで文献学の業績をあげ、大学の教授の職を得ることとなった。
大学時代に、ニーチェショーペンハウアーの主著を知り、彼の哲学への情熱をかきたてることとなった。また、ローデという親友やヴァーグナーとの交流も深め、これらの出会いがニーチェという人物の全体像を形づくっていくこととなったのである。
1872年にニーチェの『悲劇の誕生』が出版された。しかしヴァーグナーをとりわけ高く評価し、伝統的な古い文献学的思考と決別した内容であったことから、彼は文献学者としての名声を失ってしまうこととなった。またこの年からニーチェは教授としての勝利と敗北や、バイロイトへ行くヴァーグナーとの別れ、体調不良、学者として孤立した生活など転落人生を歩んでいくこととなる。
ニーチェはその後数年間で、古典文献学者から時代批評家に移行した。そして1873年から1876年の間で四つの『反時代的考察』という本を出版した。第四の『反時代的考察』では、ヴァーグナーの芸術に対し批判的になるという変化があった。
1878年5月には『人間的な、あまりに人間的なもの』をヴァーグナーに贈り、そこに書かれたヴァーグナーへの攻撃的な文がきっかけでニーチェヴァーグナーは決裂することとなった。