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れぽ

私が考える、老人の言った「御気をつけなさい。御気をつけなさい。…」の意味は、日本では天主教を広めようと思ってもオルガンテイノが伝えたかったようには残らず、やがて造り変えられてしまうから、後悔することになるかもしれない、もしくは、その造り変えられたものによって自分自身の信仰をも変えられてしまいかねないから用心するべきだということなのだと考える。
オルガンテイノがどれほど熱心に天主教を広めて己の使命を果たそうとしても、日本は、外から入ってきたものを容易に受け入れやすい一方で、自らの文化のなかに馴染みやすい独自のものへと変化させることで''日本らしさ''を保ったまま文化を新しく発展させる力を持っている。だから泥宇須がたとえ全知全能であっても、その神性さに日本に存在するあらゆる場所、時の神々が共鳴し、取って代わられてしまう。
人は、全く知らないものに対してはまず警戒したり、すぐには理解できなかったりして、親しみが持てるようになるまでに多くの時間を必要とするものである。しかし、自分のよく知っているものと合わせて考えると、例えば誰か知らない人を説明する時に芸能人のあの人に似ていると言うとイメージしやすくなるように、''分からなかったもの''はたちまち明瞭になり、人々の胸の内にすんなり入っていきやすい。
それ故、人はもともと知っていて慣れ親しんだものを求める傾向にあると言える。そして、文字といった新しい文化が入り込んできても、受けとってそのまま用いるよりも、もともと日本にあるものと掛け合わせた新しい使い方に造り変えたり、大日孁貴を大日如来と同じものだと思わせても人がイメージする大日如来は大日孁貴にしかならないといったことが起きるのである。
老人はまた、オルガンテイノ自身も百合若と同じように日本の土人に変わってしまう可能性についても注意している。
その証拠に、『神神の微笑』の削除分では、オルガンテイノが見ていたフレスコの無花果鬱金桜に、邪蘇の顔が老人(日本の神)に変わっている。オルガンテイノが知らず知らずのうちに、日本の神に会ったことで百合若と同じように彼の中の天主教が日本文化に侵され始めていることを意味しているのだと考える。
これらのことから、「御気をつけなさい。御気をつけなさい。…」という台詞は、日本では思っているように天主教を広めることができないということや、オルガンテイノ自身の信仰のあり方を変えてしまう可能性があることを忠告しているという意味を持っているのだと私は考える。