れぽとしろ

洗脳するように、ヒトラー青年団などの組織によってヒトラーによる国家社会主義を良しとする考え方に導こうとしても、人々から完全に''自由''を取り上げることはできないのだという所が印象に残った。特に幼いうちの方が、純粋で、人間の本来的なあり方としてむやみに人を傷つけたり、自分の好きなことを禁止されたり、個性を殺してしまうことが正しい行いではないと否定することができるのではないかと感じた。ある15歳の少女がヒトラー青年団においてヒトラーについては認めつつもユダヤ人のことを気にしたり、娯楽として好んで用いていた他民族の歌を禁止されたり、ショルが大隊旗をニュルンベルクの党大会に捧持する任務を受けたときの場面でそれが感じられた。いくらあらゆる理屈を付けてヒトラーが自らの望む国のあり方を肯定しても、人間が本能的に嫌悪してしまうものはやはり本来正しくないものだと、やがて我々は気付くことができるのだ。ここに、人間に強さや本来的正義感、倫理観が備わったいることを感じられ、喜びとともに感心させられた。
ショルとゾフィーの最も素晴らしい点は、彼らがキリスト教倫理観を持っていたところである。秘密警察に捕まり、尋問を受けることになった時、ショルとゾフィーが気にしていたのは他の仲間のこと、家族のことだけだあった。ショル兄妹は捕まってから処刑されるまで、彼らが置かれている状況では普通ありえないほど落ち着いていた。彼らが表情を曇らせたり、激しく動揺したのは、誰か仲間の名前を秘密警察に明かさなければならなくなった時や、仲間の一人であるクリストゥル・プロープストが秘密警察に同じように捕まったことを知った時だけであった。ショル兄妹にとって恐れるべきことは、自らの安否よりも人々の安全であったのである。だからこそ、危険を冒してまで白バラ通信をはじめとする様々な対国家社会主義運動や、他人の罪を軽くするために自らに全ての罪を被せるということができたのである。これはまさにイエス・キリストの自己犠牲の精神と同じであった。
そして、もし私が自分を犠牲にしてでも誰かを守ろうと考える時、その相手に対して愛を抱いていることは間違いない。同様にショル兄妹も、守るべきものに対して愛を持っていたと考えられる。彼らの素晴らしさは、それが身近の人物に限らずあらゆる人に向けられていたというところにある。これもイエス・キリストのような博愛の精神に当てはまる。
さらに、秘密警察に捕まり収容されている時、ゾフィーはエルぜ・ゲーベル、ショルはヘルムート・Fに出会う。ショル兄妹は彼らのことをすっかり信用して、多くの本音を語った。エルぜ・ゲーベルに至っては、秘密警察ミュンヘン本部監獄課の受入れ係りで働かされる身、つまり敵側としてもおかしくない人物であったが、それでもゾフィーは全く疑う素振りもなくエルぜ・ゲーベルの言うことを信じていた。人間への信頼も、キリスト教倫理の特質である。
このようなキリスト教倫理観を持つことは、なかなかできることではない。イエス・キリストにならって生きること、例えば他者を守ろうとすること、つまり愛することは、実際に困難なものである。エーリッヒ・フロムは愛は技術であると言っている。愛することができるようになるためには習練が必要なのだと。戦争や圧政のある酷い環境だからこそ、生きていくためには助け合いが必要で思いやりの心が育まれやすかったのかもしれないが、ともかく彼らの、虐げられている者への愛や奉仕の心はこの時代に強力な力と影響力を持った。
私はキリスト教徒ではないが、彼らの重視したキリスト教倫理観は、全ての人にとってもより良い行き方を求める際に重要となることと当てはまると考えた。なぜなら、人の自由や勝利、個性を大事にすることは、あらゆる可能性を潰さないということである。抑制するという行為は、本来あったはずの行為が行われなくなるということで、まだ出会ったことのないものに遭遇するチャンスが失われてしまうということである。発見なくして人類は発展していくことができない。技術の面でも精神の面でもそうである。全てが決められている場では、唯一それを操る頂点に立つものだけが気持ちの良いものである。収容所の中で自分らしく生きたショル兄妹と、訓練によって統制されたナチスの軍人では、後者の方がまるで囚人のようであり、「生き生きとした」や「笑顔にあふれて」という言葉を使えるような豊かな人生とは無縁なように感じられる。よって我々がより良い生活を求めるならば、自由であること、それぞれの個性を生かすことは大切になってくる。
そして人を愛すること、奉仕すること、信じることは、他者との繋がりを持つ際に望ましい要素となり得る。我々は人との関わりを持たずして生きていくことはできない。どんな人間でも、人から生まれ、人によってある程度まで育てられなければ生きていくことはできないからである。ごく自然に生きていくならば、人生は人との出会いの連続である。多くの人によって成り立つ社会で、出会う人とより良い関係、誰もが不幸にならない関わり方をするために必要なことは、他者を尊重し大切にすることである。大切にすることは、即ち愛することと言い換えられる。他者に奉仕することは自らも奉仕されることに繋がる。人に助けてもらった経験のある人は、恩返ししたい気持ちを持ち、また別の人を助けるようになる。それがめぐっていけば、多くの人が救われることになっていく。信じることは、我々には少し難しいことに感じられる。人を騙そうとする人間が少なからず存在するからである。しかし何もかも疑っていては心が休まることがなく、他者からの心からの善意も素直に受け取る事はできない。信じることで、お互いが認めあったと感じられ関係が良好になるとこもある。これらのことから、キリスト教倫理の中で基盤となっていることは、そうでない我々のうちでも重要なものだということが出来る。

れぽと

我々の多くは、確かに見た目を重視する傾向にある。それは社会的・文化的要因によってもたらされており、自らを商品のように扱い、少しでも良さに欠ける部分があれば淘汰するような動きは、現代社会で多くの問題を引き起こしている。
私は、人は見た目が100%ではなく、心が100%なのだと考える。
見た目というものは重要なものである。現代社会の傾向を見ても、そのことはもはや疑いようのない事実である。人は見た目によって判断される。ではなぜ見た目はそれほどまでに重要だと考えられているのだろうか。それは、表面的な部分だけで人を判断する世の中においても、我々は心も重視しているからである。
例えば、人の立ち居振る舞いや言葉遣いなど、我々が良しと判断する表面的なもののほとんどは人の内面が外側に現れて形成されているものである。背筋が伸びている人がそうでない人より好まれるのは、その内側にある、親から教えられた正しい所作を、よくきいて実践しているという育ちの良さを感じ取れるからではないだろうか。正しくないことをするのを格好の良いものだと捉えたりせず、正しいことをするのを正しいと思える素直な心のあり方が、その人の態度を見て分かるから好印象なのである。
見た目に気を使う人と遣わない人でも、見た目に気を使っている人の方が好印象なのは、単に見た目の良さにつられているからではない。似合う服を着たり、好きなものを前にして喜ばない人などいない。『人は見た目が100%』や『リアルクローズ』といった日本のドラマや、女性が好きな映画として常に上位である『プラダを着た悪魔』、これらに出てくる全くお洒落に興味のない女性たちも、似合う服、好きなものを身にまとった後は自然と笑顔と自信に満ちていた。
自分の好きなものでも避けるようになってしまう理由は、マイナス方向への心の向き方が大きいからである。
「美人じゃないから意味がない」、「どうせ」、「太っているから」、見た目に気を使わないタイプの人々は、このような諦めの言葉を美しい人への嫉妬を込めて発言する。そして、「見た目が全てなのではない」と口にする。
見た目が全てではないと語る人に限って心がひねくれて未熟なことが多い。見た目を飾るか飾らないかという問題は、元々持っている顔や身体のパーツが美しいか美しくないかが重要なのではない。好きなものや自らの喜びに素直な心や、今よりも良い姿になろうと努力する向上心に満ちた姿が重要であり、それが人を惹きつけるのである。つまり、心が見た目に気を使う人の方がきれいであるから好まれるのである。
以上より、我々が見た目を重視するのは、心を重視している故なのであると言うことができる。
しかし、若さや顔や身体の造形などに関しては、人の内面とは関わりがない。若くて美しい方が人を惹きつける。やはり人は見た目が大事なのであろうか。
この問いに対する答えは「そうではない」と言える。若い方が繁殖能力が高く、美しい方が優秀な遺伝子を残せるという生物としての本能は確実に存在する。
しかしそれは人が生きている間長期で保てるものではない。老いによって見た目の美しさは少しずつ失われてしまうので、見た目が100%なのだとしたら、老後その人の価値は無くなってしまうことになる。
また、仕事場や恋愛において、見た目がいい人は初めのつかみが良い。しかし、何度も目にするうちに慣れが生じてしまう。''美しい人''ではなく''ひとりの人''として見られるようになった時、仕事のできない人や話していてつまらない人はすぐに上手くいかなくなってくる。そこで重要になってくるのが内面である。うまくいかない仕事も真剣に取り組もうとすることができる人は、周りへの印象もよくやがてスキルアップすることも望める。恋愛においても、趣味や好きなこと、自分らしさがはっきりとあって、思いやりを持って話しかけられる人であれば、やがて外見の美しさ以上に相手の心を掴むことができるようになる。
人に評価されることばかり論じてきたが、自分だけの問題として見ても、見た目より心の面が重要であると言える。見た目の問題は、今より上を目指そうとしても今ある技術やデザインなどで限界がある。しかし、心では、良い内面を目指すのに限界はなく、常に多方面から見聞きしたことを心に反映することができる。外見のように誰かと比べて焦ったり妬んだりすることもなく、その人の生き方そのものを良い方向へと導いてくれるので、良い心を持つことはとても重要であると言える。
人は見た目を重視する。しかし、見た目を重視することの背景に隠れたその本当の理由が心を知るためだということ、そして、見た目だけでは人も自分自身も完全に惹きつけることは出来ず、健康な心のあり方においてそれが可能となるので、人は見た目ではなく心が100%だと言うことができる。

れぽと

我々の多くは、確かに見た目を重視する傾向にある。それは社会的・文化的要因によってもたらされており、自らを商品のように扱い、少しでも良さに欠ける部分があれば淘汰するような動きは、現代社会で多くの問題を引き起こしている。人は見た目で判断されるのだという考え方が一般化し、そのことはもはや疑いようのない事実のように思われている。そうであるならば、人は見た目が100%なのだろうか。私は、この問題に対してそうではないと考える。人は一見表面的な部分だけで人を判断しているように見えるが、実際はその人の心を見て判断しているのである。つまり、人は見た目が100%なのではなく、心が100%なのである。本レポートでは、人が動的な美しさや飾られた美しさに惹かれること、人間が身体的な美しさに惹かれること、自分自身の問題として見た時の心と見た目の3点から、人は見た目が100%なのかという問題について論じていく。
第一に、人が動的な美しさや飾られた美しさに惹かれることについて考えていく。例えば、人の立ち居振る舞いや言葉遣いなど、我々が良しと判断する表面的なもののほとんどは人の内面が外側に現れて形成されているものである。背筋が伸びている人がそうでない人より好まれるのは、その内側にある、親から教えられた正しい所作を、よくきいて実践しているという育ちの良さを感じ取れるからではないだろうか。正しくないことをするのを格好の良いものだと捉えたりせず、正しいことをするのを正しいと思える素直な心のあり方が、その人の態度を見て分かるから好印象なのである。
見た目に気を使う人と遣わない人でも、見た目に気を使っている人の方が好印象なのは、単に見た目の良さにつられているからではない。似合う服を着たり、好きなものを前にして喜ばない人などいない。『人は見た目が100%』や『リアルクローズ』といった日本のドラマや、女性が好きな映画として常に上位である『プラダを着た悪魔』、これらに出てくる全くお洒落に興味のない女性たちも、似合う服、好きなものを身にまとった後は自然と笑顔と自信に満ちていた。自分の好きなものでも避けるようになってしまう理由は、マイナス方向への心の向き方が大きいからである。「美人じゃないから意味がない」、「どうせ」、「太っているから」、見た目に気を使わないタイプの人々は、このような諦めの言葉を美しい人への嫉妬を込めて発言する。そして、「見た目が全てなのではない」と口にする。
見た目が全てではないと語る人に限って心がひねくれて未熟なことが多い。見た目を飾るか飾らないかという問題は、元々持っている顔や身体のパーツが美しいか美しくないかが重要なのではない。好きなものや自らの喜びに素直な心や、今よりも良い姿になろうと努力する向上心に満ちた姿が重要なのであり、それらが人を惹きつけるのである。つまり、心が見た目に気を使う人の方がきれいであるから好まれるのである。以上より、我々が見た目を重視するのは、心を重視している故なのであると言うことができる。
第二に、人間が身体的な美しさに惹かれることについて考える。若さや顔や身体の造形などに関しては、人の内面とは関わりがない。若くて美しい方が人を惹き付ける。若い方が繁殖能力が高く、美しい方がより優秀な遺伝子を残せるという生物としての本能も存在する。やはり人は見た目が大事なのだろうかと考えてしまうが、そうではない。人間の身体的な美しさは、人が生きている間長期で保てるものではない。老いによって見た目の美しさは少しずつ失われてしまうので、見た目が100%なのだとしたら、老後その人の価値は無くなってしまうことになる。また、仕事場や恋愛において、見た目がいい人は初めのつかみが良い。しかし、何度も目にするうちに慣れが生じてしまう。''美しい人''ではなく''ひとりの人''として見られるようになった時、仕事のできない人や話していてつまらない人はすぐに上手くいかなくなってくる。そこで重要になってくるのが内面である。うまくいかない仕事も真剣に取り組もうとすることができる人は、周りへの印象もよくやがてスキルアップすることも望める。恋愛においても、趣味や好きなこと、自分らしさがはっきりとあって、思いやりを持って話しかけられる人であれば、やがて外見の美しさ以上に相手の心を掴むことができるようになる。
第三に、心と見た目を自分自身の問題として考えていく。人に評価されることばかり論じてきたが、自分だけの問題として見ても、見た目より心の面が重要であると言える。見た目の問題は、今より上を目指そうとしても今ある技術やデザインなどで限界がある。しかし、心では、良い内面を目指すのに限界はなく、常に多方面から見聞きしたことを心に反映することができる。外見のように誰かと比べて焦ったり妬んだりすることもなく、その人の生き方そのものを良い方向へと導いてくれるので、良い心を持つことはとても重要であると言える。
人は見た目を重視する。しかし、見た目を重視することの背景に隠れたその本当の理由が心を知るためだということ、そして、見た目だけでは人も自分自身も完全に惹きつけることは出来ず、健康な心のあり方においてのみ人も自分自身も完全に惹きつけることが可能となるので、人は見た目ではなく心が100%だと言うことができる。

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申楽(猿楽)というものが能の起源である。
平安時代に申楽は、滑稽卑俗な物真似や問答等をして法会や祭礼の際の人を集めるための芸能であった。
能はまず散楽があり、散楽はそれが訛って申楽となった。そしてもう一つ農民の娯楽であった田舞があり、この時代は申楽の能と田楽の能の二つが存在していたのである。
鎌倉時代になると、やがてそれを職業とする集団が現れた。芸能職業集団である。その集団は「座」というものを結成した。「座」はその土地の有力な寺社に所属するようになった。
この時代にはまだ申楽と田楽があり、田楽の方を好む武将が多かったので田楽の方が盛んであったが、徐々に南北朝時代には申楽と田楽は内容が同じようになり本質的な違いがなくなっていった。
そして申楽でいうと「座」は大和申楽と近江申楽が有力であった。大和申楽は春日神社に属しており、近江申楽は日吉神社に属している。大和申楽は結崎、外山、円満井、坂戸の大和四座を総括しており、この中の結崎座から、観阿弥(観世清次)という名手が登場した。元弘3年生まれの観阿弥は猿楽の中に物語り芸である曲舞を取り入れ、写実的な能を作った。この観阿弥が今日の能の基礎を作った人物である。そしてその後の世阿弥と共に能を大成していった。
芸術的に高度に能を発展させた人が世阿弥である。生没年についてははっきりとした記録が残されておらず、貞治2年に生まれ嘉吉3年に亡くなったというのが通説である。世阿弥というのは観阿弥の子であり、夢幻能の大成者である。
能は大きく現在能と夢幻能の二つに分けられる。現在能というのはシテが現実の生きている人間のことであり。夢幻能ではシテが霊である。シテは主役、ワキは相手役を意味している。
世阿弥が作り出した夢幻能がどのようなものかというと、シテが前場では人間に化身して登場する。そして後場では本体の霊として登場し、舞いが中心である。そしてワキは旅人や僧などであり、シテが話す身の上話や伝説などの懐旧談を聞き、舞いなどを見る。これが夢幻能と言われるものである。前場後場の間には狂言が挟まれる。
世阿弥はこの能を作って大活躍し、時の将軍足利義満観阿弥の芸と世阿弥の美少年さと教養に魅了され絶大な庇護を与えていた。それまでの足利将軍は北条執権にならって田楽の方を好んでいたので、これは世阿弥にとって名誉だっただけではなく、申楽にとって記念すべきことであった。
しかし至徳元年5月に観阿弥が亡くなり、足利義満も応永15年に急死した。将軍が義持、義教と代替わりし、義持は父の義満への反発心があったためか田楽の増阿弥の方を支援した。義教は申楽を支援したが、世阿弥よりもその甥である音阿弥を好み贔屓した。このことによって世阿弥は立場的な不幸が重なり、没落していくこととなる。晩年には世阿弥は義教の怒りに触れ、70歳を超えてから佐渡に流されている。
世阿弥の業績を見てみると、これはあまりにも偉大である。世阿弥は能を作り、能を演じただけでなく能楽論を書いている。その代表作は、観阿弥の教えを自らの言葉に変えて書き上げた初めの能楽論書である『風姿花伝』である。
これは子孫のために書き残した秘伝書である。つまり公に全ての人に読んでもらおうとして書いたものではなく、自分の後を継ぐものに対して書き残した伝書なのである。風姿花伝は明治になってから見つかり、哲学や思想などの様々な人がこの風姿花伝をとりあげるようになる。
特徴的なのが「花」という理念である。
花というのは、時を得て咲くものであり、年中咲いているわけではない。そしてまた散るものである。ゆえに花なのである。そしてそれゆえに花はめづらしい。めづらしいとは新鮮に感じるという意味である。そしてめづらしいために「おもしろし」なのである。おもしろしとは愛でる、感動を与えるという意味である。したがって花とめづらしとおもしろしの三つは一つなのであると言っている。これが花の理念である。
能というのは同じようなものを同じように繰り返していけばよいというものではなく、同じ境地に停滞してはだめなのだという本質を、この花の理念を通して世阿弥は語っているのである。
そしてこの花を咲かせるためにいかにすればよいのかを丁寧に解いているのが花伝書になる。
世阿弥の後継者はその女婿である金春禅竹である。
室町時代後期は観世信光、観世長俊、金春禅鳳が活躍した。この時代の能は風流能といい、登場人物や見せ場が多かった。
近世には、能は江戸幕府の式楽とされ、以来270年間その命脈を保つ。また240曲ほどに曲目が整理され、この曲目は五番立という脇能、修羅物、鬘物、雑物、切能の5つに分類される。能の流派は様々あり、大和四座と呼ばれていたものが観世、宝生、金春、金剛と流派を形成し、近世初期に生まれた喜多という一流を合わせて江戸幕府はこれらを四座一流という制度の下に統括していた。江戸幕府が崩壊すると、能は将軍や大名の保護から外され、生活に困窮した者は能の衣装や小道具を日本に来た外国人に売ってしまうこともあった。しかし、衰退した能は明治の上流社会において再興され、現在では盛況をきたしている。

参考文献:
松田存著『能・狂言』.株式会社ぎょうせい.1990年
久保田淳編『日本文学史』.株式会社おうふう.1997年
高橋睦郎著『読みなおし日本文学史』.株式会社岩波書店.1998年
島津忠夫著『日本文学史を読むー万葉から現代小説までー』.世界思想社.1992年

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1.健康の定義について説明せよ
健康とは、たんに病気にかかっているとか虚弱でないということを指すのではなく、身体の体力値が高く精神的に安定していて、社会的な立場も良好であるという様々な面から人間の状態が良いものであるということである。

2.現在の日本では「健康=長生き」という目標はおおむね達成したが、それに伴い新たな社会問題が発生している。その新たな社会問題について説明せよ
新たな社会問題とは、医療の発達によって人が死ななくなり高齢者が増える一方で新しく生まれる子どもの数は少ないので少子高齢化社会になるということ、長生きではあるがひとりで生活するのが困難な高齢者のための介護が必要になり、そのために施設や人員が必要となること、そして高齢者に対して若者が少ないので、一人あたりの若者が支えなければならない高齢者が増えるという人的負担の増加、若者が払わなければならない年金の金額の増加等がある。

3.健康の成立条件について、健康を規定する要因とその寄与率について説明せよ
健康を規定する要因とその寄与率は、遺伝的要因が20%、環境要因が20%、健康医療システムが10%、各人のライフスタイルが50%である。生活習慣は健康の成立条件として最も重要なものであると分かる。

4.BMIとは何か、数式や基準を明示して詳しく説明せよ
BMIとは栄養状態の指標であり、Body Mass Indexの略称である。体重(kg)÷身長(m)^2で求めることができる。
世界基準(WHOの基準)でいうと、BMIが18.5未満だと痩せ、25から30未満だと過体重、30以上だと肥満に分類される。日本基準だと、BMIが18.5未満だと痩せ、18.5から25未満が標準、25から30未満が肥満、30以上であると高度肥満に分類される。日本は世界基準よりBMIが小さいことが分かる。ただし、アスリートのような一般より筋肉量が多い者はBMIが高くなるが肥満ではない。

5.スキャモンの発育曲線について4項目を説明せよ
スキャモンの発育曲線には神経型、生殖型、リンパ型、一般型がある。神経型は幼児期に急速に発達し、100%まで発達するとそれ以上は上がらない。大脳がこれの代表格である。
生殖型は思春期になると発育が顕著になり、それまでは一番発達が遅い。
リンパ型は急速に発達していき思春期にピークとなる。自己防衛体力を作り、100%を超え他の発育型より大きく発達した後、急速に衰えていく。胸腺がその代表格である。
一般型は20歳頃まで比較的穏やかに発育していく。筋や内臓はこれに属する。

6.免疫の種類について説明せよ
免疫の種類は、自然免疫と獲得免疫がある。
自然免疫とは、人が生まれた時から持っている抵抗力のことである。どんな異物や病原体にもすぐに対応できる一方、攻撃力は弱い。
獲得免疫は、生まれた後にかかった病気や予防注射によって得た病原体の情報で獲得する免疫のはたらきのことである。感染後に長くて14日ほど発動するまでに時間がかかるが、攻撃力は強い。二度目の感染への対応は一度目より迅速で強力である。
自然免疫がまず病原体が増えるのを抑えて、その間に獲得免疫が発動の準備をするというふうに、各々が密接に連携して生体を防御している。

7.ストレスによる免疫機能制御のメカニズムについて説明せよ
自律神経系と内分泌系に影響が出ることによって免疫機能は低下する。
まず自律神経は交感神経と副交感神経からなっていて、ストレスを受けると交感神経が優位になる。そうなると、神経伝達物質であるエピネフリンとノルエピネフリン(別名アドレナリンとノルアドレナリン)が大量に生産される。
内分泌系も、ストレスを受けると脳の視床下部から下垂体へ、下垂体から、副腎皮質へとホルモンが伝達し、副腎皮質ホルモンであるコルチゾールが大量生産される。
これらの神経伝達物質と副腎皮質ホルモンはTリンパ球を不活発にし、NK細胞機能を抑制するので、免疫機能を低下させる。

8.ホメオスタシス(恒常性)の性質、制御機能について説明せよ
ホメオスタシスとは、生体の内外の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、またはその状態のことである。
生物が生物であるという要件の一つで、健康を定義するための要素となる。生体恒常性という呼ばれ方もされる。
恒常性が保たれるためには、変化が生じた際にそれを打ち消す働きであるネガティブフィードバック作用が必要である。この作用は主に間脳視床下部が制御していて、自律神経系や内分泌系が中枢からの命令伝達をしている。

9.「サクセスフルエイジング」とは何か、またどのような状態を示すのか説明せよ
サクセスフルエイジングとは、ユージュアルエイジングに対して成功したタイプの老化のことを指す。
これは、高齢でも心身機能を保持できていて、身体の不調の原因となる危険因子が少なく、認知や身体運動機能が良好で、人生に積極的に関与している状態を示す。

10.関節の構造とその特徴について例を挙げて説明せよ
関節とは骨と骨の結合部分のことを指し、多くの身体の動きは関節を支点にして筋が骨を引っ張ることによって成立している。
関節は膝関節のような蝶番型と、肩関節のような球状の構造がある。
蝶番型は進展や屈曲などの動作に強く、回内や回外のようなねじる動作に弱い。球状は関節の自由度が高いが、外の力への耐久性があまりない。

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カタリ派とはどんなものか」
カタリ派は、11世紀初頭頃から西洋社会で広まっていった中世のキリスト教異端運動の代表格である。10世紀頃のボゴミル派という二元論の異端を起源とし、組織立って長期的な活動は、他の異端信仰と比べても目を見張るものがある。
特に北イタリアのロンバルディア地方とランドックでは格段に普及したが、他の地域においてはそこまでの影響力を持っていなかった。
カタリ派異端のはっきりとした特徴は、これまで行われてきた洗礼の儀式の代わりに按手礼を行うこと、肉食や結婚を拒否するということである。
カタリ派が他の異端と明確に異なっている点は、カトリック教会の一元論的な教義に対して、それを真っ向から否定する二元論的な教義を持つ点である。
カタリ派の神話とはどのようなものか」
カタリ派の信じている天地創造の神話は次のようである。
人間は元々天上世界にいる天使であった。しかし悪魔が、神に戦いを仕掛けた結果敗れ、地上世界に落とされた時に天使の一部を道連れにしたのである。悪魔はそして天使を肉体という物質に閉じ込め、他にも様々な物質世界を作りだした。人間は完全者とならなければ、何度も他の肉体に閉じ込められてしまうので、現世で悪魔の作りし物質的要素と決別し、天に帰ろうとすることが務めなのである。
この神話は世界を神、善、霊魂と悪魔、悪、肉体の二つの原理として捉える見方である。それはとても二元論的な世界観を現している。また後半から、カタリ派の教義は一種の輪廻転生の思想を持っているということもいえる。

「完全者になるためには何が求められるか」
唯一最大の儀式として救慰礼を行うこと、またその救慰礼で祈るための資格を得ること、結婚しないこと、肉食を避けることや完全者と一緒でなければ食事をしない等の食制限を守ること、殺さないこと、嘘をつかないこと・誓わないこと、裁かないことが求められる。
これらのことを徹底して行わなければ、人間についてまわる悪を引きはがすことは難しいのである。

カトリックカタリ派は全てにおいて対立しているのか」
異端信仰として排除の対象となったカタリ派ではあるが、カタリ派の教えは正統と全く対立しているわけではなく、ある程度までは正統と同じ役割を担っていた。
キリスト教は元来人間の「原罪」を定めていて、地上にいる我々人間の立場に対して暗い見方をしている。それでインノケンティウス3世は、彼の著作の中でまるでカタリ派の発言のような悲観的な見解を書いている。
また、肉欲と性行為については、正統カトリックの聖職者が独身の傾向にあることから、キリスト教はいつの時代も懐疑と不信の念を抱いていたということがわかる。
悪魔についても、カトリック内でもその存在は強く信じられており、司教の説教にも登場するほどであった。
さらに、キリスト仮現説が正統内にも一部見られるということや、女性が子供を身ごもり新しい生命を世に出すということが正統内でも災いのように扱われていたことも、カタリ派と共通の点として見ることができる。

カタリ派は正統の教会からどのような扱いを受けて滅びていったのか」
教会は早い時期から、カトリック教会の統一性を脅かすこのカタリ派が着々と勢力を拡大していることに対して大きな不安を感じていた。1119年にはすでに、カタリ派の異端者がカトリックに戻るようにと、教皇カリクストゥス2世がトゥールーズにて説教を行っている。
その後も異端排除のため説教がなされたが、本格的に教会とカタリ派が対抗しはじめたのは、カタリ派の全盛期、すなわち12世紀末から13世紀初めの時期である。この時期はインノケンティウス3世が教皇に就任した頃で、彼はカタリ派断罪のために教皇特使を次々と派遣し、一部では武力行使もされた。この断罪は他の地域ではある程度容易であったが、南フランスの聖職者たちの無気力さもあり、ここでは成功しなかった。
教皇にとってカタリ派対策の大きな力添えとなったのがドミニコ会である。しかしそれでもカタリ派は一向に衰えることがなかったので、「教会は血を好まず」の原則であったが、ついに教会は十字軍の派遣に踏み切った。それがアルビジョア十字軍であった。
これは、1208年に、カタリ派を暗黙のうちに支えていたトゥールーズ伯レモン6世に破門宣告を行った教皇使節ピエール・ド・カステルノーが、その帰りにレモン6世の側近と思われる者に殺されたことが原因で、インノケンティウス3世が非常に腹を立てたのが決定的となって始まったのである。
レモン6世はこれに驚き暗殺の責任をとって鞭打たれ、十字軍の一員となることで赦しを得た。しかし教会は一度軍を起こしたからには見せしめのためにも攻撃すべきと考え、30万もの兵士が参加した十字軍はカタリ派の一大拠点であったベジエで大量虐殺を行い、「カタリ派のローマ」と言われたトゥールーズを占領するに至った。
これによってカタリ派は南フランス社会では姿を消し、モンセギュールに移り活動を続けた。
しかし再び十字軍からの攻撃を受け、備えや地形の味方によってしばらくは持ちこたえたが、1244年3月16日には籠城していた異端者は火刑台で焼かれ、カタリ派異端は終息していった。

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愛は技術である。しかし、大半の人々は愛は一つの快感で、運によって突然「落ちる」ものだと思っている。人々は愛を軽く見ている訳では無いけれど、ほとんどの人は愛について学ばなければならないことがあるのだとは考えていない。それは、愛についての問題を''愛する''ではなく''愛される''という問題で捉えていること、愛の問題は対象の問題であって能力の問題ではないと思い込んでいること、恋に落ちた瞬間と''愛している''状態を混同していることの三つの誤りによる。
何らかの活動で失敗したら、人はその原因や上手くいく方法を探るであろう。これと同様に、愛の失敗においてもその原因を調べ、さらには愛の意味を学ぶことが必要である。そのために、私たちは愛が技術であると知るべきである。そしてその技術を習得するには、理論に精通することと、習練に励むこと、そして、技術の習得に自分自身が関心を持っているということが求められる。
愛に関する理論は全て、人間の実存についての理論から始める必要がある。人間はそもそも一つの独立した存在であり、孤立していることによって不安が生じる。これを克服することが人間の最も強い欲求なのである。
これを満たすための方法の一つ目は祝祭的興奮状態になること、二つ目は集団に同調すること、三つ目は創造的活動をすること、四つ目は愛である。そして、この中で完全なものは愛だけである。
愛には実存の問題への成熟した形の愛と、共棲的結合のような未成熟な形の愛がある。
愛は受動的ではなく能動的な活動で、その性質を示しているのは、愛は与えることだという事実と、あらゆる愛に共通した要素があるという事実である。その要素とは、配慮、責任、尊重、知であり、これらは依存しあっている。
また、合一への生物学的欲求の面では、男と女の二つの極の合一の欲望というものもある。
次に親子の愛についての理論を考えてみる。人は生まれてからはじめに母親に愛されるという受動的経験をする。母親の愛は無条件なのである。そして子どもは成長していくと愛することを覚え、母に代わって父親との関係が重要になってくる。父親の愛は条件付きの愛である。やがて子どもは自分自身が父であり母のような状態になる。
また、愛の対象の理論を考えてみる。愛特定の人間のみに生じる関係ではなく、全てのものに対してどのように関わっていくかという態度や性格の方向性のことである。愛の種類は対象によって、兄弟愛
母性愛、異性愛、自己愛、神への愛がある。
愛が生産的な能力であれば、その愛する能力は社会が人々に与える影響に左右される。そこで現代西洋社会の構造とそこから生まれた精神について見てみるが、それらは愛発達を促すようなものではない。本当の愛は様々な偽の愛によって取って代わられているのである。
どのような技術においても共通して言うことができる習練を積むために必要なことは、規律と集中と忍耐と技術の修得をいちばん重要なこととして関心を抱くことである。
愛の能力において必要なことは、ナルシシズムの克服、信じること、勇気、能動的であることの四つである。これらの個人的な面は社会的な面と繋がっており、それゆえ愛の発達を妨げるような社会を大きく変えることも必要となってくる。

ある授業で「愛とは何か」を学生同士で話し合った時、愛とは実在しないものだというような否定的な考えを挙げる人が多かった。このように答える人は、自分の愛の技術が足りないためにそのような考えに至る結果となっている事に気が付いておらず、本来素晴らしいものであるはずの愛を誤解してしまっているのだと理解することができた。愛についてある意味絶望している人に対して、本来の愛の持つ人を幸福に導く力を理解するためにも、愛について学ぶことの重要性を何らかの形で多くの人に伝えることができなければ、愛に絶望する人の数は今後も増え続けていくのではないかと不安を感じた。
ところで、愛は完全に孤独を満たすことのできる唯一のものであり、それによって人を幸せにすることができる技術であるとフロムは言う。しかし愛はそれだけではなく、相手に''与えたい''と思うことから、より価値が増し人々を幸せにすることができると私は考えた。
愛する人の成長を気にかけるとき、その人がよくない方向に向かおうとしたらそれを阻止できるだけの力が必要になる。そのために、愛する人ができた人は愛する人のために何らかの努力をするようになる。愛は人にこのような意欲を与えることによって人間として自立するだけでなく、より多くの能力を身に付けさせることができ、相手の成長のみならず愛する者自らのよりよい成長を促すことから、幸せに導かれると考えられる。
また、愛について関心を持つことが大事だということは私自身の経験からも実にそうだと言えると考えた。
私を含め、周囲で聞く最も多い愛の失敗の原因となっているものは相手に依存していることである。私は「がんばっているのに愛されない人」という本を読み、愛におけるナルシシズムと依存心について知ったことでそのことに気付き、考え方を改めなければと感じた。こうした気付きのためにも、常に愛についての関心を持ち積極的に情報を取り入れようとする姿勢が大事なのだと分かった。