読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

れぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ

申楽(猿楽)というものが能の起源である。
平安時代に申楽は、滑稽卑俗な物真似や問答等をして法会や祭礼の際の人を集めるための芸能であった。
能はまず散楽があり、散楽はそれが訛って申楽となった。そしてもう一つ農民の娯楽であった田舞があり、この時代は申楽の能と田楽の能の二つが存在していたのである。
鎌倉時代になると、やがてそれを職業とする集団が現れた。芸能職業集団である。その集団は「座」というものを結成した。「座」はその土地の有力な寺社に所属するようになった。
この時代にはまだ申楽と田楽があり、田楽の方を好む武将が多かったので田楽の方が盛んであったが、徐々に南北朝時代には申楽と田楽は内容が同じようになり本質的な違いがなくなっていった。
そして申楽でいうと「座」は大和申楽と近江申楽が有力であった。大和申楽は春日神社に属しており、近江申楽は日吉神社に属している。大和申楽は結崎、外山、円満井、坂戸の大和四座を総括しており、この中の結崎座から、観阿弥(観世清次)という名手が登場した。元弘3年生まれの観阿弥は猿楽の中に物語り芸である曲舞を取り入れ、写実的な能を作った。この観阿弥が今日の能の基礎を作った人物である。そしてその後の世阿弥と共に能を大成していった。
芸術的に高度に能を発展させた人が世阿弥である。生没年についてははっきりとした記録が残されておらず、貞治2年に生まれ嘉吉3年に亡くなったというのが通説である。世阿弥というのは観阿弥の子であり、夢幻能の大成者である。
能は大きく現在能と夢幻能の二つに分けられる。現在能というのはシテが現実の生きている人間のことであり。夢幻能ではシテが霊である。シテは主役、ワキは相手役を意味している。
世阿弥が作り出した夢幻能がどのようなものかというと、シテが前場では人間に化身して登場する。そして後場では本体の霊として登場し、舞いが中心である。そしてワキは旅人や僧などであり、シテが話す身の上話や伝説などの懐旧談を聞き、舞いなどを見る。これが夢幻能と言われるものである。前場後場の間には狂言が挟まれる。
世阿弥はこの能を作って大活躍し、時の将軍足利義満観阿弥の芸と世阿弥の美少年さと教養に魅了され絶大な庇護を与えていた。それまでの足利将軍は北条執権にならって田楽の方を好んでいたので、これは世阿弥にとって名誉だっただけではなく、申楽にとって記念すべきことであった。
しかし至徳元年5月に観阿弥が亡くなり、足利義満も応永15年に急死した。将軍が義持、義教と代替わりし、義持は父の義満への反発心があったためか田楽の増阿弥の方を支援した。義教は申楽を支援したが、世阿弥よりもその甥である音阿弥を好み贔屓した。このことによって世阿弥は立場的な不幸が重なり、没落していくこととなる。晩年には世阿弥は義教の怒りに触れ、70歳を超えてから佐渡に流されている。
世阿弥の業績を見てみると、これはあまりにも偉大である。世阿弥は能を作り、能を演じただけでなく能楽論を書いている。その代表作は、観阿弥の教えを自らの言葉に変えて書き上げた初めの能楽論書である『風姿花伝』である。
これは子孫のために書き残した秘伝書である。つまり公に全ての人に読んでもらおうとして書いたものではなく、自分の後を継ぐものに対して書き残した伝書なのである。風姿花伝は明治になってから見つかり、哲学や思想などの様々な人がこの風姿花伝をとりあげるようになる。
特徴的なのが「花」という理念である。
花というのは、時を得て咲くものであり、年中咲いているわけではない。そしてまた散るものである。ゆえに花なのである。そしてそれゆえに花はめづらしい。めづらしいとは新鮮に感じるという意味である。そしてめづらしいために「おもしろし」なのである。おもしろしとは愛でる、感動を与えるという意味である。したがって花とめづらしとおもしろしの三つは一つなのであると言っている。これが花の理念である。
能というのは同じようなものを同じように繰り返していけばよいというものではなく、同じ境地に停滞してはだめなのだという本質を、この花の理念を通して世阿弥は語っているのである。
そしてこの花を咲かせるためにいかにすればよいのかを丁寧に解いているのが花伝書になる。
世阿弥の後継者はその女婿である金春禅竹である。
室町時代後期は観世信光、観世長俊、金春禅鳳が活躍した。この時代の能は風流能といい、登場人物や見せ場が多かった。
近世には、能は江戸幕府の式楽とされ、以来270年間その命脈を保つ。また240曲ほどに曲目が整理され、この曲目は五番立という脇能、修羅物、鬘物、雑物、切能の5つに分類される。能の流派は様々あり、大和四座と呼ばれていたものが観世、宝生、金春、金剛と流派を形成し、近世初期に生まれた喜多という一流を合わせて江戸幕府はこれらを四座一流という制度の下に統括していた。江戸幕府が崩壊すると、能は将軍や大名の保護から外され、生活に困窮した者は能の衣装や小道具を日本に来た外国人に売ってしまうこともあった。しかし、衰退した能は明治の上流社会において再興され、現在では盛況をきたしている。

参考文献:
松田存著『能・狂言』.株式会社ぎょうせい.1990年
久保田淳編『日本文学史』.株式会社おうふう.1997年
高橋睦郎著『読みなおし日本文学史』.株式会社岩波書店.1998年
島津忠夫著『日本文学史を読むー万葉から現代小説までー』.世界思想社.1992年

れぽぽぽぽぽぽぽぽぽ

1.健康の定義について説明せよ
健康とは、たんに病気にかかっているとか虚弱でないということを指すのではなく、身体の体力値が高く精神的に安定していて、社会的な立場も良好であるという様々な面から人間の状態が良いものであるということである。

2.現在の日本では「健康=長生き」という目標はおおむね達成したが、それに伴い新たな社会問題が発生している。その新たな社会問題について説明せよ
新たな社会問題とは、医療の発達によって人が死ななくなり高齢者が増える一方で新しく生まれる子どもの数は少ないので少子高齢化社会になるということ、長生きではあるがひとりで生活するのが困難な高齢者のための介護が必要になり、そのために施設や人員が必要となること、そして高齢者に対して若者が少ないので、一人あたりの若者が支えなければならない高齢者が増えるという人的負担の増加、若者が払わなければならない年金の金額の増加等がある。

3.健康の成立条件について、健康を規定する要因とその寄与率について説明せよ
健康を規定する要因とその寄与率は、遺伝的要因が20%、環境要因が20%、健康医療システムが10%、各人のライフスタイルが50%である。生活習慣は健康の成立条件として最も重要なものであると分かる。

4.BMIとは何か、数式や基準を明示して詳しく説明せよ
BMIとは栄養状態の指標であり、Body Mass Indexの略称である。体重(kg)÷身長(m)^2で求めることができる。
世界基準(WHOの基準)でいうと、BMIが18.5未満だと痩せ、25から30未満だと過体重、30以上だと肥満に分類される。日本基準だと、BMIが18.5未満だと痩せ、18.5から25未満が標準、25から30未満が肥満、30以上であると高度肥満に分類される。日本は世界基準よりBMIが小さいことが分かる。ただし、アスリートのような一般より筋肉量が多い者はBMIが高くなるが肥満ではない。

5.スキャモンの発育曲線について4項目を説明せよ
スキャモンの発育曲線には神経型、生殖型、リンパ型、一般型がある。神経型は幼児期に急速に発達し、100%まで発達するとそれ以上は上がらない。大脳がこれの代表格である。
生殖型は思春期になると発育が顕著になり、それまでは一番発達が遅い。
リンパ型は急速に発達していき思春期にピークとなる。自己防衛体力を作り、100%を超え他の発育型より大きく発達した後、急速に衰えていく。胸腺がその代表格である。
一般型は20歳頃まで比較的穏やかに発育していく。筋や内臓はこれに属する。

6.免疫の種類について説明せよ
免疫の種類は、自然免疫と獲得免疫がある。
自然免疫とは、人が生まれた時から持っている抵抗力のことである。どんな異物や病原体にもすぐに対応できる一方、攻撃力は弱い。
獲得免疫は、生まれた後にかかった病気や予防注射によって得た病原体の情報で獲得する免疫のはたらきのことである。感染後に長くて14日ほど発動するまでに時間がかかるが、攻撃力は強い。二度目の感染への対応は一度目より迅速で強力である。
自然免疫がまず病原体が増えるのを抑えて、その間に獲得免疫が発動の準備をするというふうに、各々が密接に連携して生体を防御している。

7.ストレスによる免疫機能制御のメカニズムについて説明せよ
自律神経系と内分泌系に影響が出ることによって免疫機能は低下する。
まず自律神経は交感神経と副交感神経からなっていて、ストレスを受けると交感神経が優位になる。そうなると、神経伝達物質であるエピネフリンとノルエピネフリン(別名アドレナリンとノルアドレナリン)が大量に生産される。
内分泌系も、ストレスを受けると脳の視床下部から下垂体へ、下垂体から、副腎皮質へとホルモンが伝達し、副腎皮質ホルモンであるコルチゾールが大量生産される。
これらの神経伝達物質と副腎皮質ホルモンはTリンパ球を不活発にし、NK細胞機能を抑制するので、免疫機能を低下させる。

8.ホメオスタシス(恒常性)の性質、制御機能について説明せよ
ホメオスタシスとは、生体の内外の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、またはその状態のことである。
生物が生物であるという要件の一つで、健康を定義するための要素となる。生体恒常性という呼ばれ方もされる。
恒常性が保たれるためには、変化が生じた際にそれを打ち消す働きであるネガティブフィードバック作用が必要である。この作用は主に間脳視床下部が制御していて、自律神経系や内分泌系が中枢からの命令伝達をしている。

9.「サクセスフルエイジング」とは何か、またどのような状態を示すのか説明せよ
サクセスフルエイジングとは、ユージュアルエイジングに対して成功したタイプの老化のことを指す。
これは、高齢でも心身機能を保持できていて、身体の不調の原因となる危険因子が少なく、認知や身体運動機能が良好で、人生に積極的に関与している状態を示す。

10.関節の構造とその特徴について例を挙げて説明せよ
関節とは骨と骨の結合部分のことを指し、多くの身体の動きは関節を支点にして筋が骨を引っ張ることによって成立している。
関節は膝関節のような蝶番型と、肩関節のような球状の構造がある。
蝶番型は進展や屈曲などの動作に強く、回内や回外のようなねじる動作に弱い。球状は関節の自由度が高いが、外の力への耐久性があまりない。

れぽぽぽぽぽぽぽぽぽ

カタリ派とはどんなものか」
カタリ派は、11世紀初頭頃から西洋社会で広まっていった中世のキリスト教異端運動の代表格である。10世紀頃のボゴミル派という二元論の異端を起源とし、組織立って長期的な活動は、他の異端信仰と比べても目を見張るものがある。
特に北イタリアのロンバルディア地方とランドックでは格段に普及したが、他の地域においてはそこまでの影響力を持っていなかった。
カタリ派異端のはっきりとした特徴は、これまで行われてきた洗礼の儀式の代わりに按手礼を行うこと、肉食や結婚を拒否するということである。
カタリ派が他の異端と明確に異なっている点は、カトリック教会の一元論的な教義に対して、それを真っ向から否定する二元論的な教義を持つ点である。
カタリ派の神話とはどのようなものか」
カタリ派の信じている天地創造の神話は次のようである。
人間は元々天上世界にいる天使であった。しかし悪魔が、神に戦いを仕掛けた結果敗れ、地上世界に落とされた時に天使の一部を道連れにしたのである。悪魔はそして天使を肉体という物質に閉じ込め、他にも様々な物質世界を作りだした。人間は完全者とならなければ、何度も他の肉体に閉じ込められてしまうので、現世で悪魔の作りし物質的要素と決別し、天に帰ろうとすることが務めなのである。
この神話は世界を神、善、霊魂と悪魔、悪、肉体の二つの原理として捉える見方である。それはとても二元論的な世界観を現している。また後半から、カタリ派の教義は一種の輪廻転生の思想を持っているということもいえる。

「完全者になるためには何が求められるか」
唯一最大の儀式として救慰礼を行うこと、またその救慰礼で祈るための資格を得ること、結婚しないこと、肉食を避けることや完全者と一緒でなければ食事をしない等の食制限を守ること、殺さないこと、嘘をつかないこと・誓わないこと、裁かないことが求められる。
これらのことを徹底して行わなければ、人間についてまわる悪を引きはがすことは難しいのである。

カトリックカタリ派は全てにおいて対立しているのか」
異端信仰として排除の対象となったカタリ派ではあるが、カタリ派の教えは正統と全く対立しているわけではなく、ある程度までは正統と同じ役割を担っていた。
キリスト教は元来人間の「原罪」を定めていて、地上にいる我々人間の立場に対して暗い見方をしている。それでインノケンティウス3世は、彼の著作の中でまるでカタリ派の発言のような悲観的な見解を書いている。
また、肉欲と性行為については、正統カトリックの聖職者が独身の傾向にあることから、キリスト教はいつの時代も懐疑と不信の念を抱いていたということがわかる。
悪魔についても、カトリック内でもその存在は強く信じられており、司教の説教にも登場するほどであった。
さらに、キリスト仮現説が正統内にも一部見られるということや、女性が子供を身ごもり新しい生命を世に出すということが正統内でも災いのように扱われていたことも、カタリ派と共通の点として見ることができる。

カタリ派は正統の教会からどのような扱いを受けて滅びていったのか」
教会は早い時期から、カトリック教会の統一性を脅かすこのカタリ派が着々と勢力を拡大していることに対して大きな不安を感じていた。1119年にはすでに、カタリ派の異端者がカトリックに戻るようにと、教皇カリクストゥス2世がトゥールーズにて説教を行っている。
その後も異端排除のため説教がなされたが、本格的に教会とカタリ派が対抗しはじめたのは、カタリ派の全盛期、すなわち12世紀末から13世紀初めの時期である。この時期はインノケンティウス3世が教皇に就任した頃で、彼はカタリ派断罪のために教皇特使を次々と派遣し、一部では武力行使もされた。この断罪は他の地域ではある程度容易であったが、南フランスの聖職者たちの無気力さもあり、ここでは成功しなかった。
教皇にとってカタリ派対策の大きな力添えとなったのがドミニコ会である。しかしそれでもカタリ派は一向に衰えることがなかったので、「教会は血を好まず」の原則であったが、ついに教会は十字軍の派遣に踏み切った。それがアルビジョア十字軍であった。
これは、1208年に、カタリ派を暗黙のうちに支えていたトゥールーズ伯レモン6世に破門宣告を行った教皇使節ピエール・ド・カステルノーが、その帰りにレモン6世の側近と思われる者に殺されたことが原因で、インノケンティウス3世が非常に腹を立てたのが決定的となって始まったのである。
レモン6世はこれに驚き暗殺の責任をとって鞭打たれ、十字軍の一員となることで赦しを得た。しかし教会は一度軍を起こしたからには見せしめのためにも攻撃すべきと考え、30万もの兵士が参加した十字軍はカタリ派の一大拠点であったベジエで大量虐殺を行い、「カタリ派のローマ」と言われたトゥールーズを占領するに至った。
これによってカタリ派は南フランス社会では姿を消し、モンセギュールに移り活動を続けた。
しかし再び十字軍からの攻撃を受け、備えや地形の味方によってしばらくは持ちこたえたが、1244年3月16日には籠城していた異端者は火刑台で焼かれ、カタリ派異端は終息していった。

れぽぽぽぽぽぽぽぽ

愛は技術である。しかし、大半の人々は愛は一つの快感で、運によって突然「落ちる」ものだと思っている。人々は愛を軽く見ている訳では無いけれど、ほとんどの人は愛について学ばなければならないことがあるのだとは考えていない。それは、愛についての問題を''愛する''ではなく''愛される''という問題で捉えていること、愛の問題は対象の問題であって能力の問題ではないと思い込んでいること、恋に落ちた瞬間と''愛している''状態を混同していることの三つの誤りによる。
何らかの活動で失敗したら、人はその原因や上手くいく方法を探るであろう。これと同様に、愛の失敗においてもその原因を調べ、さらには愛の意味を学ぶことが必要である。そのために、私たちは愛が技術であると知るべきである。そしてその技術を習得するには、理論に精通することと、習練に励むこと、そして、技術の習得に自分自身が関心を持っているということが求められる。
愛に関する理論は全て、人間の実存についての理論から始める必要がある。人間はそもそも一つの独立した存在であり、孤立していることによって不安が生じる。これを克服することが人間の最も強い欲求なのである。
これを満たすための方法の一つ目は祝祭的興奮状態になること、二つ目は集団に同調すること、三つ目は創造的活動をすること、四つ目は愛である。そして、この中で完全なものは愛だけである。
愛には実存の問題への成熟した形の愛と、共棲的結合のような未成熟な形の愛がある。
愛は受動的ではなく能動的な活動で、その性質を示しているのは、愛は与えることだという事実と、あらゆる愛に共通した要素があるという事実である。その要素とは、配慮、責任、尊重、知であり、これらは依存しあっている。
また、合一への生物学的欲求の面では、男と女の二つの極の合一の欲望というものもある。
次に親子の愛についての理論を考えてみる。人は生まれてからはじめに母親に愛されるという受動的経験をする。母親の愛は無条件なのである。そして子どもは成長していくと愛することを覚え、母に代わって父親との関係が重要になってくる。父親の愛は条件付きの愛である。やがて子どもは自分自身が父であり母のような状態になる。
また、愛の対象の理論を考えてみる。愛特定の人間のみに生じる関係ではなく、全てのものに対してどのように関わっていくかという態度や性格の方向性のことである。愛の種類は対象によって、兄弟愛
母性愛、異性愛、自己愛、神への愛がある。
愛が生産的な能力であれば、その愛する能力は社会が人々に与える影響に左右される。そこで現代西洋社会の構造とそこから生まれた精神について見てみるが、それらは愛発達を促すようなものではない。本当の愛は様々な偽の愛によって取って代わられているのである。
どのような技術においても共通して言うことができる習練を積むために必要なことは、規律と集中と忍耐と技術の修得をいちばん重要なこととして関心を抱くことである。
愛の能力において必要なことは、ナルシシズムの克服、信じること、勇気、能動的であることの四つである。これらの個人的な面は社会的な面と繋がっており、それゆえ愛の発達を妨げるような社会を大きく変えることも必要となってくる。

ある授業で「愛とは何か」を学生同士で話し合った時、愛とは実在しないものだというような否定的な考えを挙げる人が多かった。このように答える人は、自分の愛の技術が足りないためにそのような考えに至る結果となっている事に気が付いておらず、本来素晴らしいものであるはずの愛を誤解してしまっているのだと理解することができた。愛についてある意味絶望している人に対して、本来の愛の持つ人を幸福に導く力を理解するためにも、愛について学ぶことの重要性を何らかの形で多くの人に伝えることができなければ、愛に絶望する人の数は今後も増え続けていくのではないかと不安を感じた。
ところで、愛は完全に孤独を満たすことのできる唯一のものであり、それによって人を幸せにすることができる技術であるとフロムは言う。しかし愛はそれだけではなく、相手に''与えたい''と思うことから、より価値が増し人々を幸せにすることができると私は考えた。
愛する人の成長を気にかけるとき、その人がよくない方向に向かおうとしたらそれを阻止できるだけの力が必要になる。そのために、愛する人ができた人は愛する人のために何らかの努力をするようになる。愛は人にこのような意欲を与えることによって人間として自立するだけでなく、より多くの能力を身に付けさせることができ、相手の成長のみならず愛する者自らのよりよい成長を促すことから、幸せに導かれると考えられる。
また、愛について関心を持つことが大事だということは私自身の経験からも実にそうだと言えると考えた。
私を含め、周囲で聞く最も多い愛の失敗の原因となっているものは相手に依存していることである。私は「がんばっているのに愛されない人」という本を読み、愛におけるナルシシズムと依存心について知ったことでそのことに気付き、考え方を改めなければと感じた。こうした気付きのためにも、常に愛についての関心を持ち積極的に情報を取り入れようとする姿勢が大事なのだと分かった。

れぽぽぽぽぽぽぽ

パウロ以後の書簡に記されている妻(女性)への勧告などを見ると、妻はことごとく夫に従うようにと書かれており、女性は男性よりも立場が低く、権威が欠如した存在であるという扱われ方をしている。しかし、男性と女性にそのような差はなく、この扱いは不当なものだというのが私の意見である。
まず第一に、ペトロ書に「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」とあるように、女性が弱者であるという意見に反論する。
確かに力で男女が争った場合、ほとんどの場合筋肉の付き方の違い等によって、女性は男性に負けてしまう。しかし、女性は出産を経験するために、痛みへの耐性と怪我の治癒力でいえば男性よりも優れており、男性よりも強い一面を持っている。したがって、身体の違いによってどちらの方が弱者であると決めつけることは難しい。
社会における弱者という女性の立場は、そうであれば都合がいいと考える男性によって作られてきたものである。女性の意見は聞かなくてもよいというような意識なく、フラットな状態で男女が話し合ったとしたら、女性の発言の質は男性と比べても劣るところがないに違いない。なぜなら、男女は頭の良し悪しに差がないからである。頭の良い学校にもそうでない学校にも、男女は両方存在していて、このことから頭の良し悪しは男女差ではなく個人差によるものが大きいのだと分かる。
第二に、テモテ書の2章に、婦人が教えたり、男の上に立ったりすることはいけないと書かれていることについて考えていきたい。
知識のある者がない者に教えるという行為は、そもそも禁止される理由がない。知識を待つ能力に男女差はない。それにもかかわらず、むやみに制限することは知識を伝えられる人材を減らすことになり、人々の知識の成長を遅らせ、その時々で必要な情報がうまく伝わっていかなくなるので、かえって効率が悪いことになる。
また、婦人は男の上に立ってはいけないという部分についても、この勧告に従おうとするために女性が自らの能力を抑えるというのはおかしな話である。
人間のよりよい生き方としては、日々成長を求めて努力を重ねていくのがよい。その過程で、女性が男性より優れた存在になることは十分ありえる。あえて女性の能力を抑えて男性を立てるより、男女関係なく優秀な人材が人の上に立ったり教えたりする方が、より競争力を高めて個人の能力を引き伸ばしやすいこともあり、高度な社会を作ることができると考えられる。
したがってこれらの勧告は、積極的に女性を下に扱うためだけのものであるといえる。
どんな立場の人間でも、命の価値は皆等しく、神の下では同じ血と肉を分け合う者として平等である。そうであるにもかかわらず、妻や子、奴隷などを自分より劣った存在として見ることを勧めることは、男性を高慢にさせ、自分の価値を他者との比較によって見出すような人間にさせてしまう恐れがあるので、キリスト教の聖書に書かれるものとして相応しくないと考える。
第三に、ペトロ書に書かれている内容については、女性が軽視されているわけではなく共感できる内容もあるが、それは女性だけに限って勧告するものではないということについて考える。
まず、神を畏れる女性の純真な生活を見て、御言葉を信じない男性であっても信仰に導かれるようになるため、妻は夫に従うべきだという勧告がある。
しかしこれは女性が御言葉を信じていない場合にも使えて、反対に男性がその行いによって女性を信仰に導くことも出来るので女性だけの役割にはならない。
また、女性の「装いは編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なもの」であってはならず、「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべき」だという内容も、非常に共感できるが女性だけに与えられる勧告ではない。
いくら外見を美しく着飾っても、外見によって得られる利点はわずかで、内面を磨かない者が外側だけ取り繕ってもかえって不格好になってしまうだけである。例えば、どんなに見た目が美しい人でも、電車の中で化粧をしたり、道にゴミを捨てたりといった姿を見せれば印象は台無しである。一方見た目が控えめな人であっても、一つ一つの所作が美しく教養の行き届いた雰囲気を見せる人の方は好印象を持たれやすい。これにも男女差はなく、男性も、外見を着飾るよりも内面を重視し磨きをかけた方が、よく見られるだけでなく、よりよい人格形成にも役立てられる。
第四に、聖書の内容は性差別主義で父権制的な記述が目立つが、女性に対するイエスの態度はどうであったのかということを考えてみると、ここでは男性も女性も平等に接しているイエスの姿を見ることができる。「男性だけでなく女性も、神の御心についてイエスの優しくも厳しい教えを聞いた「群衆」のなかに含まれていた」。そしてまた、「男性だけでなく女性もイエスの癒しの奇跡と食物の奇跡にあずかっている」。
世の中の体系的には女性は蔑視されているが、神や神の子の前では性差はなく、むしろイエスに香油を注いだ女性の物語のように、「自己犠牲的奉仕の行為、拒絶と辱めへといたる対立の経験、そして最終的な輝かしい正しさの証明」というキリスト的な愛の行為をしているとして、女性は福音を宣べ伝える際に語られる重要な話の一端を担っている重役なのだということが分かる。
以上のことから、新約聖書における女性は男性より劣った存在として扱われており、父権制的であるけれども、実際は男性と女性は能力に差はなく、平等なものであり、女性も重要な役割を持つ存在であるとわかる。したがって、新約聖書における女性の扱いは不当なものである。

れぽぽぽぽぽぽ

人間は、自分が人より優れているか劣っているかということは大変気になる。人よりも優れていると安心したり満足したりする。逆に、人よりも劣っていると、がっかりしたり卑屈になったりする傾向がある。
ルカによる福音書の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえでは、ファリサイ派の人と徴税人が登場する。ファリサイ派の人は神殿を登るときに、自分の心の内を神様の前に明らかにする。その姿は自信に満ちている。誰にも難癖をつけられないような毎日を過ごしていると自負しているのである。一方徴税人は、同じように神殿で祈るけれど目を天に上げようとはしない。自分には神様に見せられないくらい多くの罪があると思っているのである。だから、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」とだけ神様にお祈りした。
この場合、ファリサイ派の人の方が、神に良しとされるために努力を怠らなかったので優れているように見える。しかしイエスは、徴税人のほうを良しとすると言った。それは、ファリサイ派の人が人と自分を比べているのに対して、徴税人は人との批判を脱していたからであった。さらにファリサイ派の人は、自分が人と比べてした評価と、神様が人に対する評価を同じだと思っていた。対して徴税人は、神から見て自分はどうかということを考えていたので、徴税人のほうが良しとされたのである。
私たちが人より優れた存在でありたいと思うことは、向上心を持つためにも悪いことではないといえる。しかし、人と比べてどうかということばかりを気にしていては良くないということを、このたとえ話は示しているのである。
自分が何かを行う際には、その行為に相応しい心が伴っていなければ、どんなに良い行いをしたとしてもその良さは半減してしまう。
私は高校生の頃ボランティア同好会に所属しており、学校内外で様々な活動に取り組んでいた。この同好会に、ある時期になると受験のために所属するという人が増えてくるのである。
そのような人たちは、活動に参加しても積極性がなく、ボランティアに行った先の人々とのコミュニケーションにぎこちなさや、どこかやる気のなさを相手に感じさせてしまうので、一緒に活動をする際は心配したものだった。
このように、心から人の助けになりたいと思ってボランティアに参加するのと、内申のためにボランティアに参加するのとでは活動への取り組み方に差が生まれる。したがって、何かに取り組む時はそれにのぞむ心のあり方も非常に重要なのである。
また、自分が優れた存在であるということを証明するために他人を引き合いに出すことは、相手を貶める行為なので、心を汚してしまう。よりよい人間として過ごしていくためには、他人の行為は他人のものとして尊重し、他人と比べるより、過去の自分と比べてどれだけ今の自分が成長することができたのかを見たり、自分自身の持てる力の中でどれだけベストを尽くすことが出来たのかを考えるほうが精神的に健康だといえる。
祈りの観点で見ても、「他人を軽蔑する者は祈ることができない。」「自分が、罪を犯し苦しみと悲しみに沈んでいる人間のひとりであることを自覚して、ただ神のあわれみの座にひざまずくほかはない。」
そしてもう一つ、このたとえ話は、自分のする評価が絶対だと過信することの危険性も私たちに伝えている。
人はそれぞれ違う考えを持っている。生まれ育った環境や出会った人、得意不得意などによって他人と感じ方や考え方に違いが出るのは当然のことである。それにもかかわらず自分だけのものさしで判断しようとすることは、必ず間違いを生じてしまうので気をつけなければならない。
よく陥ってしまいがちであるのが、自分がよいと感じたものをよかれと思って他の人にもおすすめしたいと思った時、相手の反応お構いなしに押し付けてしまうというものである。
例えば感動する本に出会って、それを読んだ感想を誰かに共感してほしいという欲求を持った時はもちろん、自分がその本を読んで様々なことを考えさせられ、得られるものが多かった場合に、誰か周りの人に、とりわけ仲の良い人には伝えて同じものを得られることを望むのはよくあることである。
しかしここで大事なのは、必ずしもその本をおすすめした相手が同じ感動を得られるとは決まったわけではないということである。自分が望んだ結果を相手が得られたなら、そのまま感想を話し合ったり、続編について語ることはお互いにとって実りのある時間となるだろう。
一方、相手の好みから外れていてその本の良さが伝わらなかった時、絶対に共感してもらうことを求めるあまり執拗にその本の良さをアピールしたり、再度読むことを要求したりしてしまいがちになる。けれどもそれでは相手の負担になってしまうし、そんなことをしても、その作品の良さが伝わる可能性はかなり低い。
前述したとおり、何に感動し何に価値を見出すかは人によって様々で、必ずしも自分にとって良いものが相手にとっても良いものとなるとは限らないということを肝に命じておかなければならない。
また、もう一つ大事なことは、相手の立場に立って考えることである。自分ひとりの目線から見て判断するのではなく、周りの人から見たらどうなのだろうと、客観的に物事を見つめてみることを習慣づけると、より広い視野での考え方、ものの捉え方ができるようになるので望ましい。

れぽぽぽぽぽ

1872年以降から、多くの病気が連続して彼の生涯につきまとっていたのだが、1879年にはそれがますます悪化していった。加えて世間嫌いの病気や人付き合いの困難、友への過大な要求があり、ヴァーグナーのみならず師リッチェルやローデ、ゲルスドルフとの関係も疎遠になっていった。しかし代わりに得た友人もあった。その中のひとりであるペーター・ガストは、ニーチェの著書や講義、個人的な付き合いを通してニーチェを崇拝するに至り、ニーチェも彼の音楽家としての才能や人間性に魅せられていった。彼は後にニーチェの口述の筆記や印刷前の清書を書き上げるなどの奉仕で、絶対に不可欠な存在となった。
ニーチェは悪化していく病気のためにガストの他にも、自らの世話をしてくれる人を必要とし、それを妹のエリーザベットが引き受けるようになった。それでも不安定な生活であったので、この問題を解決するべく、生活に安定をもたらすために1867年、オランダ娘マティルデ・トラムペダッハに手紙で求婚した。しかしこの求婚は失敗に終わった。
結婚の話がなくなり、1878年にはニーチェの面倒をみてくれていた妹が母の元へ行ったきりになってしまい、さらには1879年のはじめに激しい頭痛と眼の痛み、絶え間ない嘔吐を伴う発作が頻発し、容態が悪化の一途を辿っていた。ニーチェは、教授職を辞任することに決めた。
しかし病気にもかかわらずニーチェは執筆を続け、1886年には『さまざまな意見と箴言』と『漂白書とその影』が一冊にまとめられ、『人間的な、あまりに人間的なもの』という標題がつけられた。これに続いて『曙光』、『喜ばしき知識』を刊行した。
ニーチェはその後もあちこちへ旅する中でシールスにたどり着き、そこで今まで知らなかった調子の幸福感を得ることとなった。そして夏には同じきものの永劫の回帰の思想「ツァラトゥストラ」への鍵を手に入れた。
1882年にニーチェは友人とともにローマへ行き、ロシア人のルー・サロメと出会った。ニーチェは恋に落ち、やがてルーに求婚したが断られてしまった。それ以降もニーチェのルーへの感情は変わることがなかった。そのことに対して妹のエリーザベットは嫉妬し、ルーの陰口やうわさ話を言いふらすようになり、やがてニーチェと妹は一時決裂するまでに至った。
その翌年、ニーチェはたった10日間で『ツァラトゥストラ』第一部を書き上げ、同じ年に第二部、第三部も書き上げられた。第四部は1885年に完成させている。しかし、これらの作品は当時人々にら理解されなかった。
ニーチェはそれから、1886年の『善悪の彼岸』を初めに三年間で『道徳の系譜学』、『ヴァーグナーの場合』、『偶像の黄昏』、『反キリスト者キリスト教批判の試み』、『この人を見よ』、『ニーチェヴァーグナー』、『ディオニュソス賛歌』という数々の作品を生み出していった。その翌年、ニーチェトリノで精神崩壊することとなった。バーゼルの神経病院に入院し、その時の診断は「進行性麻痺症」であった。その後イェーナの病院に転院したが、次の年には母が自宅療養の許可をとり介護をして生活することとなった。母が亡くなった後は妹が看病を引き継いだ。
そして彼は1900年8月25日に亡くなり、ロェッケン村の墓地に埋められた。
「ヨーロッパのニヒリズムの最大の診断者ニーチェ」として世界的に名声が高まり始めるのは、彼の死後数年たってからであった。